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九州の窯5 伊万里の発展

 

 北九州地方では、やきものの産地を皿山と呼ぶことがあります。「皿」はやきものの代名詞で、「山」は登り窯のある場所を示しています。

 磁器の製造が始まっておよそ三十年間、佐賀藩は有田周辺での製陶業が年々発展する様子を見守っていましたが、一六三五(寛永十二)年頃、企業としての定着を見極めたうえで、やきものの生産者に対して運上金を課すことにしました。(営業利益に対して一定の率で課す税金を運上金と言い、定率でない税を冥加金言いました。)後に佐賀藩では焼き物業に課した運上金が、藩の重要な財源となりました。

一六四〇(寛永十七)年頃から有田皿山では磁器作りの技術が飛躍的に発達しました。そのひとつは、南川原の酒井田喜左衛門(初代柿右衛門)が、中国から輸入していた赤絵磁器と同様のものを作ることを思いつき、伊万里の陶商東島徳左衛門を通して、赤絵の原材料を入手して、家が傾くまでの苦労を重ね、漸く日本で最初に磁器の上に赤絵を焼き付けることに成功したことです。

釉薬の上に赤や黄、緑などの色を焼き付ける技法を赤絵または上絵と言います。また、数種類の色糸で文様を織り出した織物を「錦」と言いますが、上絵の技法で多彩な色を焼き付けた色絵磁器を「錦手」と言います。さらにこれに金彩を施したものを金襴手と呼びます。

有田の製品は染付と同時に錦手という伊万里独特の華やかなやきものが登場することになったのです。

ますます発展を続ける製陶業に対して佐賀藩は、皿山奉行と言う役所を設け、さまざまな技術が外部に漏れることを防ぎ、原料の陶石の乱掘や薪としての山林の乱伐を防ぐことを目的に内山・外山の制度を設け、陶工の人数、ロクロの台数、窯の数などに一定の制限を加える窯元の統廃合を行いました。さらに白磁や染付を焼く窯焼業と上絵付けを行う赤絵付業を分離するなど、皿山に対して監督・管理・支配を強化しました。

一七世紀の中ごろ、有田皿山に極めて大きな影響の及ぶ事件が起こりました。それは中国で明王朝が滅んで、清王朝が樹立する政変です。この騒乱のため、中国の各港には外国船が寄港できなくなったのです。これまで景徳鎮から日本を始め東南アジアやヨーロッパに向けて陶磁器を輸送していたオランダの貿易商、東インド会社は中国の陶磁器の代替品として、ペルシャの陶器と有田の磁器に着目したのです。(この頃、江戸幕府は、キリスト教を禁止する手段として、オランダ、中国、朝鮮以外の国との外交を絶つという政策=鎖国を採り、長崎湾に造成した出島が貿易の唯一の窓口でした。)この後,有田では国内の需要に応じるだけでなく、外国からの注文にも応えて、輸出品の製造を始めることになりました。

 

 

 

 

 

写真はシャルロッテンブルグ宮殿(ベルリン)の磁器室に納められた伊万里の壷

九州の窯
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市

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茨城県日立市2

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茨城県日立市3

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茨城県日立市4

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茨城県日立市5

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栃木県黒磯市

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栃木県黒磯市2

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栃木県市貝町

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栃木県那須市2

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