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九州の窯二十 薩摩焼四 (竪野)

 

 竪野系の窯も何度かその設置場所を移転していますが、この窯は一貫して藩主のお楽しみ専用の窯です。藩主義弘が渡来陶工の金海に命じて、居館のあった姶良郡帖佐の宇都にお庭窯として築窯させたのが最初ですが、開窯の正確な時期は判っていません。

 金海は薩摩藩の軍船で渡来した陶工の一人で、市来神之川で上陸した一行の中にいたと伝えられていますが、上陸後、義弘の蟄居が解かれて、やきものつくりの指示を出すまでの間、何処で何をしていたのかは判っていません。金海は日本名を星山仲次といい、義弘に重用されましたが、その出身地や渡来後の詳しい行動の記録は残っていないため、今となっては確かめることのできないことがたくさんあります。

 金海は宇都に窯を築いた後、義弘の命によってやきものつくりの修行のため、当時わが国の最も先進地であった瀬戸(美濃)へ赴きました。五年の修行を終えて薩摩に戻った後、義弘が居館を加治木に移したのに伴って、窯を加治木に移築しました。

 加治木では、宇都以来の協力者・申主碩(田原友助)、申武信(田原万助)兄弟とともにお庭窯を築きました。この窯は瀬戸地方の古窯半地上式窖窯を模した形式だったと推定されます。この窯では朝鮮式の手法に瀬戸の技法が融和した独特の作風・風格を持つ義弘好みの茶陶が作られました。

 義弘は加治木に住んで十二年後に亡くなりました。跡を継いだ家久は居城を鹿児島に移し、城下冷水町に金海を呼び寄せ、新しい窯を築かせました。この窯を竪野冷水窯といいます。ここへ移って間もなく金海は亡くなり、嫡子金和が星山仲次を名乗り稼業を継ぎました。金和は弟とともに藩主の命によって有田へ留学し、染付け、青磁、ルリ、錦手などの技法を習得しました。これによって、窯は肥前風の連房式登り窯に改めるなど竪野窯の面目を一新しました。この窯はこのあと約二百年、幕末まで操業しました。

 家久の跡を継いだ光久も陶業に力を注ぎ、田原万助の嫡子に碗右衛門の名を与え、京都御室窯(おむろ)へ派遣しました。この当時、京都では小堀遠州や金森宗和らが茶の湯の世界で、御室窯では陶工野々村仁清が活躍していました。碗右衛門が都からもたらした作風は、竪野窯の重厚で力感ある侘びの趣を、綺麗さびやみやびといった時代の好みに沿って変化させました。

 薩摩藩ではその後もたびたび陶工を上洛させ京焼の技術導入を図り、白薩摩では染付け、錦手、宋胡録(すんころく)写し、黒もんでは象嵌、三島写し、飴釉、そば釉、鉄砂釉など多彩な手法が展開しました。

☆宋胡録(すんころく)タイの施釉陶磁器を総称する日本の呼び方  スワンカロークの音写

           白化粧を施した素地に鉄絵が描かれたものが多い

 

 

 

 

九州の窯
茨城県常陸太田

茨城県常陸太田

茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市2

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