陶芸家 江口滉
九州の窯十三 上野(あがの)
関が原の戦いの功績によって、丹後田辺(舞鶴市)十二万石から豊前中津三十二万石に加増転封された細川忠興(三斉)は、古田織部と並んで利休門下の茶人としてもよく知られた武将です。忠興はすぐに小倉に城を築いてここに移り、中津は嫡男忠利を城主としました。忠興は城下に尊楷という陶工を招いて茶陶の窯を築かせました。これが上野焼の始まりです。
尊楷はもと朝鮮国釜山の城主の子で、文禄の役の後に加藤清正軍に伴われて渡来し、唐津でやきもの作りに従事していましたが、その後一時帰国して陶法を研究して、再び来日して細川氏に招かれたと伝えられています。
尊楷が小倉城下に築いた窯は、城主忠興のお楽しみ窯で主に茶陶が作られていました。その後、窯は現在の田川郡赤池町上野に移されて、日用品を含めた本格的仲間場として操業を始め、上野焼と呼ばれるようになりました。尊楷はここで上野喜蔵という和風の名前を許されて細川藩の保護のもとで作陶を続けました。ここは,隣国筑前の高取焼(次号で説明します)が始められた鷹取山永満寺に近く、原材料が豊富にあり、窯を設けるには条件が良いところだったと考えられます。
上野も高取もはじめの頃の作風は古唐津風のものでしたが、上野では城主忠興好みの素朴さと、当時最も流行していた遠州好みの綺麗を兼ね備えた茶陶が作られるようになりました。
およそ三十年の後、細川氏は肥後熊本に転封されました。この時上野喜蔵(尊楷)は、長男、次男とともに細川氏を慕って肥後へ移り、上野には三男孫左衛門甫久と娘婿の渡久衛門らを残して作陶を続けさせました。
肥後へ移った喜蔵らは、やがて高田焼を始めることになりますが、これは後で説明します。
上野に残った喜蔵の三男は、姓を十時と改め、義弟の渡氏、一族の吉田氏らとともに細川に替わって藩主となった小笠原氏の保護のもとで幕末まで上野焼を続けました。
小笠原時代以降の上野焼は、京焼の技法を取り入れるなどの工夫が加えられて、多彩な作風が展開しました。白釉地に銅緑釉や三彩釉を施したものや、柚肌手、象嵌などさまざまな技法が用いられ、明るい、綺麗な焼き物が展開し、この伝統は今にまで受け継がれています。
![]() 茨城県常陸太田 |
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![]() 栃木県黒磯市2 |
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![]() 栃木県那須市2 |
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![]() 神奈川県横浜市2 |