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喫茶の歴史11

 

 「わび」「さび」と並んで、茶の湯の世界で使われる言葉に「数寄(すき)」があります。室町時代の末期、堺の茶人真松斎春渓(しかしょうさいしゅんけい)の「分類草人木(ぶんるいそうじんぼく)」という茶書に「数寄」について次の記述があります。

『数寄ということ、何れの道にも好み嗜(たしな)みを言うべし。近代、茶の湯の道を数寄というは、数を寄するなれば、茶の湯には物数を集むる也。わびたる人も、風呂釜、小板、水指、水翻(みずこぼし)、蓋置、茶入れ、茶碗、茶筅、茶杓、茶巾、囲炉、自在、炭斗(すみとり)、火箸、花入れ、画、墨跡、葉茶壷、茶臼等を集むる也。諸芸の中に、茶の湯ほど、道具を多く集むるものこれなし。』

 数寄とは、もと「好き」から出発して、好みのものを集めるコレクターというほどの意味に使われていたようです。さらに、庭に独立して建てられた茶室を数奇屋と呼んだことから、茶室風の簡素な建物を数寄屋造りというようになったとされています。

 茶の湯の歴史を眺めるとき、堺の町とこの町の豪商たちの存在は重要です。

 堺は、南北朝内乱の時代から、瀬戸内海の交通の要所として都市的な発展を遂げました。応仁の乱以降、何度か戦禍に遭いながらも、大陸との貿易港として発展を続け、博多と並んで海外との通商を通して莫大な富の蓄積に成功しました。

 堺の商人たちは、戦国大名の勢力争いのバランスを巧みに利用して、また経済的富力を基礎に、町民による自治的団結組織を作り、わが国の都市としては珍しい自由都市を築き上げました。

 堺の町が最も繁栄していた室町末期ころ、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる町の実力者たちは、海外貿易を通して得た巨万の富を背景に多くの唐物を持ち、当時流行していた茶の湯に打ち込み、文字通り数寄者として盛名を馳せていました。

 このころ、日本に滞在していた宣教師のロドキレスは、著書「日本教会史」に次のように記しています。

『数寄と呼ばれる新しい茶の湯の様式は、有名で富裕な堺の町で始まった。この町は、主要な商業の中心地で、日本中で一番商業が盛んに行われている。市民は大変裕福である。この町で資産を持っている者は、大掛かりに茶の湯に傾倒していた。また、日本中はもとより、国外にまで商取引が行われていて、この町には茶の湯の最高の道具が集まった。 茶の湯に精通した堺の人たちは、幾本かの樹木を植えて、それに囲まれた小さな茶の家を造った。そこでは狭い地所の許す限り、田園にある一軒家のように、人里離れて住む隠遁者の草庵を真似て、自然らしい風景を眺められることに専念していた。この狭い小家では、

互いに茶に招待し合って、都市の中にある爽やかな隠退の場所として楽しんでいた。彼らはこれを市中(しちゅう)の山居(さんきょ)と呼んでいた。』

 ロドギレスは市中の山居を堺でのこととして記述していますが、京都でも、珠光の弟子たちによって造られていて、下京茶の湯者の営む茶屋(都の隠家)として流行していました。

喫茶の歴史
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