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喫茶の歴史12

 

 珠光の創出したわび茶の精神は、弟子の宗陳・宗吾という人たちを経て、武野紹鴎に受け継がれました。武野紹鴎の家系は、元若狭の守護大名の後裔でしたが、祖父が応仁の乱のとき戦死し、父は孤児となって諸国を遍歴したあと、堺に定着し、三好家の庇護の下に、武具に必要な皮革業を営んで、一代で産を成したといわれています。紹鴎は、財力豊かな商家で育ち、若い頃から種々の芸事に興味を持っていて、二十四歳の時、都へ出て繁華な街中(四条室町)に住まいを構え、連歌師と交流したり、ときには禅寺に出入りし、当時古典学では随一と言われていた三条西実隆に就いて和歌を学び、また、珠光の門人だった宗陳・宗吾らに茶の湯の手ほどきを受けるなど多方面にわたってその才を磨いていました。三十一歳で堺に戻り、剃髪して紹鴎と名乗り、その後は商いの傍ら茶の湯に専念したと言われています。

 紹鴎の茶は、珠光のわび茶を一層押し進めたもので、四畳半茶室の草庵化をはかり、わびとは「慎み深く奢らぬさま」と言う精神を持ち、晩年になって、同じ堺の商人で茶人の北向道陳の紹介で、若い千与四郎(後の利休)に出会い、門弟一人として侘び茶を伝えました。

最近、茶道史研究家で帝塚山大学の神津朝夫氏が「利休が紹鴎から影響を受けた」とする通説を否定する新しい見解を発表されました。神津氏は「利休のわびとはなにか」(角川選書三七八)の中で、『武野紹鴎の茶の湯は、わび茶とは逆に、室町将軍家の愛好した高価な輸入品である唐物茶道具を、茶会に持ち込むものであった。』と言い切っておられます。

喫茶の歴史に関して、昔の人たちの書き遺した資料はたくさんあります。この連載にも、いくつかを紹介してきました。これらの中に「南方録」と言う書物があります。南方録は、千利休に親しく接して、茶の湯の指導を受けた堺の南宗寺の僧南坊宗啓が、利休から授かった口伝秘事を書きとどめたという形式のものです。しかし、現在では、この文書は宗啓の著書ではなく、およそ百年の後に全く別人によって創作された偽書であるとする説が支配的です。

 神津氏は、信用のできない南方録を除いて、他の資料を詳しく読み解くと、これまで一般に言われてきた姿とは全く異なった紹鴎像が見えてくるとして、『紹鴎は、堺を代表する豪商の一人で、高価な茶道具を集める財力があり、その趣味は、豪商茶人たちに共通するものであった。利休と紹鴎が接触があったとしても、大きな影響を与える関係ではなかった』と言っておられるのです。

喫茶の歴史
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