陶芸家 江口滉
喫茶の歴史20
乾燥させた茶葉に湯を注いで、茶葉のエキスを抽出する方法を煎茶法または淹茶(えんちゃ)法と言います。この方法での喫茶がいつ頃から始まったのか、正確なことはわかっていません。が、始祖として石川丈山(じょうざん)(一五八三~一六七二)の名を上げることが少なくありません。石川丈山は、もと徳川氏の家臣でした。大阪夏の陣のとき、功にはやって抜け駆けをしたことで処罰され、浪人となりました。その後藤原惺窩(せいか)について漢学を修め、一時は安芸の浅野家に仕官したことがありましたが、都の郊外比叡山の西麓の一乗寺村に一宇を建てて隠棲しました。丈山はこの住まいの中に、中国の詩人たち三十六人の画像を飾りました。このためこの建物は詩仙堂と呼ばれています。丈山はここに親しく交際していた林羅山、松花堂昭乗、狩野探幽などを招き、時々酒宴や茶会を催し、清談を愉しんでと伝えられています。
また、江戸時代の初期(一六五四)に、中国から新しく黄檗宗という禅宗を招来し、京都宇治に万福寺を開いた渡来僧隠元(いんげん)が、当時の中国で流行していた煎茶(釜炒り茶)伝えたとも言われています。
どちらの場合も、これが煎茶の最初であることを積極的に証明するものはないようです。
煎茶を単なる飲み物としてではなく、文雅な素養に支えられた精神的な喫茶の道として取り上げ普及させたのは、売茶翁(ばいさおう)の名で親しまれた高遊外(こうゆうがい)(一六七五~一七六三)です。高遊外の本名は柴山元昭と言い、肥前蓮池藩の典医の三男として生まれました。十一歳のとき、縁を得て黄檗宗の龍津寺という寺に入門し、僧侶になるための修行を始めました。当時の武士の家庭では、次・三男は他家の養子になるか仏門に入るのが良く見られた慣わしでした。彼は若いうちから非凡な才能が認められていたようで、二十二歳の頃、病を患ったことがきっかけで九州、京都、江戸、東北の各地へ修業の旅に出て、仙台では四年間の苦行を経て、深い知識を身につけたと伝えられています。さらに三十三歳の頃、長崎へ遊学し、中国人から煎茶の知識を得たようです。
四十七歳のとき、恩師が亡くなり、約十年かけて寺務を整理して、五十七歳のとき、故郷を捨てて都へ出てきました。都では僧でもなく、俗でもない、本来の人間としての生き方を求め、六十一歳のとき、東山に通仙亭という庵を設けて煎茶による売茶稼業をはじめました。店の表には『茶代は黄金百枚から半文銭までいくらでもいいよ ただ飲みもどうぞ けれどただよりはやすくしないよ』という意味のことが書いてありました。
この頃、日本の仏教寺院は、江戸幕府のキリスト教禁止の政策のひとつとして、国民の戸籍を管理する寺請制度が整い、お布施という安定した収入が保障されて安逸に流れる傾向が見え始めていました。
禅宗の寺院では、僧侶の素養に茶禅一味といって抹茶を中心とした茶道が課せられていましたが、彼の目には「茶の湯は形式と欺瞞に堕ちたもの」に見えていました。また禅僧の世界は大堂伽藍に安閑と身を寄せて信施をむさぼるばかりに堕落しているとして、本当の悔悟は形式にとらわれた寺院の中にはなく、市井の日常生活の中にこそあるということをアピールするため、高遊外の売茶活動が始められたといわれています。
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