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喫茶の歴史16

 

 千利休が秀吉から蟄居を命ぜられて、都から堺へ戻るとき、日ごろ利休について茶の湯を習い、その権勢を利用していた多くの武将たちが、見て見ない振りをしていた中で、古田織部と細川三斉の二人だけは、わざわざ淀の船着場まで出かけて見送りました。このような場合、罪人に好意を表す行いは、累が及ぶかもしれない極めて危険なことだったのです。二人の利休に寄せる思い入れの深さを語るエピソードです。

 あるとき、細川三斉が、利休に「あなたの亡くなった後に天下の茶の湯指南は誰が継ぐのでしょう」と尋ねたところ、利休は「古田織部だろう」と応えたと伝えられています。古田織部は利休から高い評価を受けていたのです。しかし、織部は利休の生前には茶人として活躍していた記録があまり残っていないのです。

 古田(ふるた)織部(おりべ)重(しげ)然(なり)は信長、秀吉に仕え、たびたび戦場で活躍した後に三万石あまりの俸禄を得た大名でした。古田家の系譜によると「利休の没後、秀吉から『利休の茶には武門の礼儀が薄いので、そのあたりを良く考えて茶法を改めるように』と命ぜられ、新しい茶法を創出した」と伝えられています。 

 利休の美意識の特徴は、控えめでしっとりと調和の取れた美しさの表現にあるといえます。一見したところ、いかにも平凡で、素朴に見えながら、内容は重厚で、毎日眺めていても決して飽きのこない不変の美しさにあるといえるでしょう。これに対して、織部の好みは、華やかに目立つ美しさをあらゆる形で表現しているのです。利休が動きの少ない静かな美しさを求めたのに対して、織部は躍動的、雄大、力強い豪快な美しさといえます。景気のよさを好み、開放的な雰囲気を持ち、思い切り斬新な南蛮意匠を取り入れたのも織部ならではのもので、当時の風潮「かぶき」精神だともいえます。当時の人々の中には、織部の表現を見て「ふざけてている(ひょうげた)」と感じた人も少なくなかったようです。

 武将としての古田織部の末路は悲劇でした。大阪夏の陣のとき、織部の家臣の一人が大阪方に内通して、徳川方の陣に奇襲を計画していたことが発覚し、関係者が逮捕されました。このとき織部も共に咎めを受けて、切腹を命ぜられるや、一言も弁明しないで自死したということです。

 桃山時代の終わり頃から江戸時代にかけて、愛知県瀬戸市と岐阜県多治見市周辺で焼かれた「織部」と呼ぶ焼き物があります。これらの焼き物のスタートに古田織部が関わったのか、偶々あったものを、古田織部が好んで取り上げたのか、詳しいことは判りません。また織部が亡くなった後になって、新しいデザインのものが追加されたことも考えられます。

 焼き物の織部については、後日改めて説明する機会があると思います。

喫茶の歴史
茨城県常陸太田

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茨城県常陸太田市美里町

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茨城県日立市2

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