陶芸家 江口滉
喫茶の歴史8
十四世紀の末期に南北朝の合一を実現させた室町幕府の三代将軍足利義満は、有力な守護大名を抑えて中央集権的な専制政治を行いました。また、久しく途絶えていた中国との国交を回復し、対明貿易の権利を得て莫大な富を築きました。貿易が盛んになったために、港町の博多や堺が大いに繁栄しました。
都 に拠点を構えるようになった武士たちは、公卿の文化や王朝文化へ憧れを強め貴族たちも、その教養を提供することで生活を支えるようになったため、独特の文化が花開くことになりました。例えば、住いの形式、食事の内容や様式、活け花、茶の湯、連歌等々現在私たちが『最も日本的だ』と思っている事柄の多くがこの時代に形作られました。
義満によって確立された幕府の体制は、彼の死後、有力な大名たちによって切り回されるようになり、幕府の信用は失墜し、各地で内乱の続く不安定な時代となりました。八代将軍義政は、二十年以上にわたって将軍職にいながら、政治家としての能力はほとんどなく、天災や内乱、凶作などで苦しい思いをしている民衆を救う手立てを講じることはありませんでした。さらに将軍職の後継問題がこじれて家臣団が分裂し、やがて、都の全域を焼き尽くしてしまった応仁の乱が起こりました。これが契機となり、その後およそ百年の間、全国が戦乱に明け暮れる乱世の時代に突入したのです。
義政は、世の中の乱れをよそに、将軍職を投げ出した後は、東山山荘に銀閣を建て、遊興三昧の日を送っていました。
千利休の高弟の一人、山上宗二(やまのうえのそうじ)が書き残した「山上宗二記」によると、『三代義満から八代義政までの間に、唐物名物といわれる名品のほとんどが将軍のコレクションとしてあつまられた』また『義政が東山山荘に隠居した後、年中・昼夜を問わず遊び暮らしていた。ある年の秋の末に同朋衆の能阿弥を呼んで「昔から今日までいろいろな遊びをしてきたが、どれも飽きてしまったよ。鷹狩もこの年齢では似合わないし、何か他に珍しいことはないものかねえ」と尋ねたところ、能阿弥は「茶の湯が面白そうですよ。奈良の称名寺に珠光という者がいて、三十年來茶の湯に没頭していて、儒学の研究者でもあります。唐物を眺めて楽しむのも茶の湯の遊びの一つでよいものですよ。」と応えた。早速義政は珠光を呼び出して、茶の湯の師匠として第一の楽しみとした。この頃、茶の湯をしない者は人非人と同じで、諸大名をはじめ下々、特に、奈良、京、堺の町衆にいたるまで人々は茶の湯を楽しんでいた。その中で、茶の湯の上手といわれる人々や、名物を持っている人、京、堺の町人などが、大名と同じように義政の茶の湯に呼ばれることになった』とあります。
(山上宗二記が書かれたのは、義政の時代から約百年も後のことで、この話が史実か否かは不明です。)
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