陶芸家 江口滉
喫茶の歴史22
ズイズイズッコロバシ
ゴマ味噌ズイ
茶壷に追われて
戸ピンシャン
抜けたらドンドコショ
昔から子供たちの間で歌い継がれてきたわらべ歌のひとつです。手を握って、それをひとつずつ数えながらこの歌を歌って指さしをして遊んだ記憶があるでしょう。この歌は「茶壷道中」が通過するまで、子供たちが不敬な過ちを犯さないように、物置小屋の中に押し込められている様子を歌ったものだと伝えられています。
江戸時代、幕府は将軍が飲むお茶を京都の宇治から特別に取り寄せていました。これは、三代将軍家光の時代(一六三三年)に始まり、幕府の終焉(一八六七年)まで続きました。幕府は、毎年新茶が摘まれると「宇治採茶使」という役人を派遣して行列を仕立てて茶を江戸まで運ばせました。この一行を「茶壷道中」と言います。
将軍が飲むお茶ですから、宇治茶の中でも最高級品であることは言うまでもありません。また、この茶葉を入れる茶壷は、信楽で特定の職人に命じて特別に作らせていました。高さが約四十センチほどの四耳壺で、上半分は鉄釉を施し、腰から下には白釉を掛け分けたもので「腰白茶壷」と呼び、一般の使用はもちろん、大名たちの使用も固く禁じられていました。
茶壷道中の一行には、徒歩頭と呼ばれる責任者を中心に茶道頭や茶道衆、茶壷の警護役人などが、多いときには五百人から千人を越えることもあったようです。この行列は、摂政関白家や宮門跡(出家した皇族)に次ぐ高い位が与えられていて、一行の通る道筋は、沿道の住民に対して、事前に道路整備が命ぜられ、一行が通るときには、田植えなどの農作業は禁じられて、煮炊きの煙を出すことも許されませんでした。また、一行に出会った者は土下座して見送らなければならず、参勤交代途上の大名も駕籠から降りて道を譲らなければならないほどでした。
お茶壷道中が江戸と宇治の間を往復する道筋は、必ずしも一定ではありませんでしたが、多くの場合往路は東海道を、復路は中山道を利用しました。
八代将軍吉宗は、幕府の財政が逼迫していたため、歳費の削減を図った享保の改革を行いました。このとき、茶壷道中の壷の数を制限したり、一行の宿駅での待遇を簡素なものに改めましたが、沿道の人々にとっては、粗相があってはならない厄介な行列でした。このことはわらべ歌にも表現されています。
二十一回にわたって「喫茶の歴史」を書いてきましたが、いったん今回でおしまいにします。次回からは、日本やきもの史に戻って、桃山時代に盛隆を極めた茶陶の説明をします。
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