陶芸家 江口滉
喫茶の歴史6
時代は少しさかのぼりますが、鎌倉時代の末ころから南北朝時代にかけて、武士たちの間で喫茶を楽しむことが流行していました。
「太平記」は鎌倉時代の末期(一三一八年)から南北朝時代を経て、室町幕府が成立した直後(一三六七年)までの約五〇年間の動乱の様子を綴った軍記物語です。フィクションが多いので中には史実として信用できない部分もありますが、当時の武士たちの様子を知る手がかりにはなります。
ここで太平記の中から、武士たちの喫茶に関係のある事項をいくつか拾って見ましょう。
その一 鎌倉幕府の軍が、楠正成の守る千早赤阪城を攻めたとき、守りが堅くて容易に落とすことができなくて、作戦を変更して、兵糧攻めの持久戦に持ち込みました。このときの様子を「大将の下知に随いて、軍勢みな戦をやめければ、慰む方なかりけん。或は碁、双六を打ちて日々を過し、或は百服茶、褒貶の歌合せなんどをもてあそんで夜を明かす・・・。」とあります。荒武者たちの陣中の茶会とはどのようなものだったのでしょう。風雅・風流とは程遠い賭博的な遊びだっただろうと想像できます。
その二 近江の出身で始め鎌倉の北条氏に仕えましたが幕府が倒れた後は足利尊氏の側近となった佐々木道誉という守護大名がいました。道誉は近江のほかに上総、出雲、若狭、飛騨の守護職も兼ねていて、その権勢には並ぶものがなく所業も傍若無人だったと伝えられています。この人の茶会の様子を太平記は次のように語っています。「異国本朝の重宝を集め、百座の粧いをして、みな曲彔(いす)の上豹・虎の皮を敷き、思い思いの緞子金襴を裁きて・・・・・」さらにその遊宴は「面五尺の折敷に十番の斉羹、点心百種、五味の魚鳥、甘酸苦辛の菓子ども色々様々に居並べたり」そしてこの酒宴の後に闘茶が行われ、その懸物は染物百反、色小袖十重、沈香百両、麝香の臍三、砂金百両、新品の鎧一領などとあります。当時、このような破天荒の振る舞いをバサラと呼びました。
その三 道誉は南朝方の楠正儀らの軍勢に攻められて、都を落ちなければならなくなったことがありました。そのとき彼は、宿所に畳を敷き詰めて、本尊、脇絵、花瓶、香炉、釜、盆などを調え、書院には王儀之の書を飾り、三石入りの大筒に酒を入れ置いて、給仕の者に「敵勢が来たら、まず一献を勧めるように」指示して退去したとあります。
このときの部屋飾りが、後の書院飾りの先鞭になったのだと言われています。そして唐物中心の部屋飾りは、その後の茶の湯名人としての資格の一つとなった「唐物所持」が大切な条件になっていくきっかけになったということです。
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