陶芸家 江口滉
喫茶の歴史3 <鎌倉時代の茶>
わが国に始めて禅宗を伝えた僧栄西は、中国(宋)へ二度留学しました。
初めは彼が二八歳の時のことで、このときは僅か半年ほどで帰国しました。二度目はそれからほぼ二〇年後の四十七歳のときでした。
このとき栄西はインドまで行くつもりだったのですが、治安が不安定であるということで宋の政庁から許可されなかったため、目的を変更して天台山へ登り、禅の修業に取り組みました。
六年後の一一九一年、帰国した栄西は、新しい喫茶法と茶の種子を招来しました。新しい喫茶法とは、乾燥させた茶葉を粉末にして,これに湯を注ぎ入れて良く攪拌して飲むという抹茶法です。
また持ち帰った種子を最初は、肥前の背振山の南麓にある霊仙寺石上坊の前庭に植えたと伝えられています。
栄西は、禅宗を広めるにあたり、比叡山とのトラブルを避けて、いきなり都へ入ることをせずに、九州の博多に聖福寺を創建し、北九州を中心に布教活動を開始することにしました。このとき聖福寺にも茶畑を作ったとされています。その後、都でも布教活動を始めようとしましたが、新興の宗派を嫌う比叡山の圧力によって一時頓挫し、一一九九年鎌倉に向かいました。ここで栄西は、頼朝の死を弔うために義家の邸跡に寿福寺を建立し、ここを足がかりとして、武士たちを対象に布教活動を展開したのです。
その後、栄西は都に禅宗の拠点を置くため、二代将軍頼家の後ろ盾を得て、幕府の管理下にあった六波羅の一部を譲り受けて、洛東に建仁寺を建立しました。建仁寺は創建当初、比叡山に配慮して天台、真言、禅の三宗一致の寺を標榜しました。
また栄西は、山城栂尾高山寺の明恵上人にも茶の種子を贈りました。明恵は、これを山中の深瀬という場所に植えたところ地味に合い、良質の茶が採れるようになりました。後にこの栂尾の茶を本茶と呼んで、他の産地のものとは別の扱いを受けることになりました。
明恵は、その後宇治にも種を蒔き茶の増産と普及を図りました。
そして、その後約百年ほどの間に京都周辺から、伊賀、伊勢、駿河、武蔵へと茶の産地はどんどん拡大しました。
京都に東福寺を建てた僧円爾は,栄西より五〇年ほど後に入宋し、帰国の際に持ちかえった茶の種子を安部川の河畔に植えたのが静岡茶の始まりと伝えられています。
鎌倉幕府の三代目の将軍実朝は、政治の実権を母政子とその実家北条氏に握られていて、政治家としての手腕を存分に振るうことはできませんでした。彼は都の文化にあこがれていて、和歌、管弦、蹴鞠などが得意だったようです。肖像画を見ていると、いかにもひ弱な青年です。アルコール依存症ではなかったかと思われます。二日酔で苦しんでいた時、栄西は茶を贈りました。この時、茶は二日酔の症状を和らげたようで、将軍は大変喜んだということが伝えられています。この時添えられた書が「喫茶養生記」というわが国最初の茶に関するガイドブックです。これを契機に、鎌倉の武士層に喫茶の風が広がり始めました。
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