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喫茶の歴史9

 

 義政に同朋(どうぼう)衆(しゅう)の一人として仕えた能阿弥は、もと越前朝倉氏の家人だったといわれていますが、どのような経緯で義政に近づいたのかは判っていません。同朋衆というのは、将軍や大名の側近にいて、身の回りの雑用をした僧体の者で、名前には阿弥号がつけられて呼ばれていました。特に、室町時代の同朋衆には、諸芸に秀でた者が多くいました。

 能阿弥は、唐物(中国から輸入された美術工芸品)の鑑識ができたので、将軍の側で重用されました。三代将軍義満以来、将軍家に集められた美術工芸品(東山御物(ごもつ)という)を整理して、財産目録(君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき))を作成しました。また、水墨画の達人としても活躍し、連歌も巧みであったと伝えられています。能阿弥は、これらの特技を活かして当時主流だった唐物中心の中国風の喫茶の作法を、日本風の書院座敷にふさわしく工夫したり、床の間や違い棚、書院窓の棚を利用したり、仏具のひとつだった台子を活用して茶道具を飾りつける方法を考え出したりもしました。

 珠光は、十一歳のとき奈良の称名寺に入って出家となりましたが、二十歳を過ぎたころ、出家を嫌い、当時流行していた闘茶にふけり、寺役を怠けて寺から追放されてしまいました。両親からも勘当されて流浪の身となり、闘茶の判者をしたり、連歌師と付き合ったりしながら諸国を漂白していたということです。闘茶の判者をするためには、茶の良し悪しだけでなく、製法や産地、水質、茶の作法などにも通じていなければなりません。相当な経験をつんでいたのでしょう。三十歳のころには、京都大徳寺の塔頭(たっちゅう)に住み、一休和尚について禅を学んだり、義政の側近能阿弥と知り合って能阿弥から、立花や器物の鑑定を学んだりして、茶禅一味の境地に達し「茶道具を唐物ばかりではなく、国産品も取り込んで、それらの調和を図る」という独自の茶の湯の観念を確立して、侘び茶を創造したといわれています。

珠光は、それまで書院広間で行われていた茶の湯を、四畳半という極めて小さな部屋で行うことを思いつきました。四畳半は、遁世者が山里に作った草庵「方丈(約三メートル四方)」に近い広さで、俗世間から脱した侘びの心境を表現しようとしたものと思われます。

 義政は、東山に造営した銀閣とともに東求堂という居間兼持仏堂を建て、その一部に同仁斎という四畳半の座敷を設けました。この部屋は、わが国最初の四畳半で、解体修理をしたとき、床下に囲炉裏の跡が確認され、義政の時代に喫茶室として使われていたことが確かめられたのです。

喫茶の歴史
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