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喫茶の歴史18

 

 小堀遠州の次に登場する茶人の代表は、片桐石州と金森宗和です。

 片桐石州は、賎が嶽七本槍の一人、片桐且元の甥にあたります。二十歳のとき石見守(いわみのかみ)に就いたことで石州と呼ばれることになりました。そしてこの頃、利休の長男道安の門人だった桑山宗仙について茶の湯を習い、数年後には奥義に達したと伝えられています。石州は、利休から直系のわびの精神を継承しているというプライドを持っていました。二十四歳で父の跡を継ぎ、大和小泉城主として大和と河内に一万六千石あまりの領地を持つ大名となりました。その後、幕府の命により、京都知恩院の普請奉行を務め、九年間京都に住むことになりました。この間に公務の傍ら、小堀遠州、松花堂昭乗、金森宗和などの巨匠たちと交わり、都の公卿たちとも交流して、これらの経験を通して茶の湯の技量も洗練され、気品高い石州流が培われたと考えられます。

 この後石州は、関東郡奉行として、東海道や東山道の整備に力量を発揮し、幕府から信任を得ることになりました。石州は、小堀遠州の跡を承けて四代将軍家綱の茶道師範に就き、「石州三百個条」という江戸城内における茶道の規範を制定しました。これは将軍、大名、公卿、門跡、地下人など階級別に茶の湯の方法や道具の様式、取り扱いなどを規定し安定した階級社会の秩序を保つ、分相応が強調されています。これを契機に石州の流儀は、たちまちのうちに地方各藩に伝わり、大名家、旗本、御家人の流儀として、定着することになりました。

 後年、茶人大名として名を馳せた松江の松平不昧公や彦根の井伊直弼なども、石州流の流れを承けた茶人たちです。

 金森宗和は、飛騨高山の城主金森可重の長男です。大阪冬の陣のとき、所領のことで父親の怒りに触れて勘当され、母親と共に京都へ上り、大徳寺で禅を修め、利休・道安流の茶を習い、やがて剃髪して宗和と号して、都の公卿たちと交遊を始めました。宗和の茶の湯は、公卿好みの柔和なもので、『姫宗和』と呼ばれました。

 宗和が公卿たちに支持されたのは、大名の嫡男の地位を捨てたことが大きかったようです。公卿たちにとって武家は好んで交際したい相手ではありませんでした。さらに宗和は、陶工野々村仁清を指導して、まったく新しい茶道具の世界を展開させたのです。それまでの茶道具は、唐物でも高麗物でも、あるいは信楽や備前など無彩色に近いものばかりでした。宗和と仁清は、これらとは全く趣の異なった、まさに公卿好みのカラフルで華やかな、優美な作品を創出したのです。

 公卿たちにとっての茶の湯は、精神性を高めたり、生活規範としての修行の一環などというものではなく、おおらかな遊びとして優雅に楽しいことが求められたのです。宗和の茶の湯は、これら公卿たちの好みに合致した華やかさが信条でした。

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