陶芸家 江口滉
喫茶の歴史2
飛鳥時代から奈良時代にかけて、遣隋使や遣唐使がたびたび派遣されていて、日本と中国の交流はかなり盛んに行われていましたが、茶が伝えられた確実な記録はないようです。僧行基が民衆済度のために施茶行をしたという伝説はありますが、これも確かなことは判ってはいません。
桓武天皇によって造営された平安京の体制は、その子嵯峨天皇の時代になってゆるぎないものとなり、宮廷は華やかな繁栄のときを迎えました。嵯峨天皇は、律令体制の確立を政治の課題として治世に臨み、先進国唐の文化を積極的に取り入れようとしました。平安時代には遣唐使が二度派遣されています。菅原清公や最澄、空海などが唐に渡り新しい文物や仏教など唐王朝のもとで花開いていたエキゾチックな文化を将来しました。喫茶の風習もその一つです。天皇は、彼らがもたらした情報をもとに、宮廷での礼儀や服装をはじめ、宮城の建物や都の区画などの名前まで唐風に改めました。
八一五(弘仁六)年四月、嵯峨天皇は近江の唐崎に行幸しました。これは琵琶湖に船を浮かべて舟遊びをしたり、歌を詠んだり舞を鑑賞するなどレクリェーションが目的だったのです。
この時、梵釈寺の大僧正永忠は、自ら天皇を出迎えて、茶を煎じてもてなしました。永忠は最澄や空海よりも年長で、奈良時代の終り頃唐に渡り、三〇年余りを彼の地で過ごした後、最澄らとともに帰国していました。天皇はこの時の茶に非常に感動されて、早速内裏の一画に茶園を作ることと、近江、丹波、播磨などに茶を植えさせ、毎年献上するように定めたと伝えられています。これは「日本後記」という書物に記されているもので、喫茶の歴史には必ず紹介されるエピソードの一つです。
しかし、天皇はこのとき始めて茶に接したのではありません。唐風文化の昂揚したこの頃、都の内外では、天皇を中心に上流の貴族や僧侶たちの間で唐風趣味に基づいた歌会やパーティーが度々開かれていました。そこには必ず茶が登場しました。お茶を称えた詩歌が、経国集、文華秀麗集、凌雲集等といった勅撰集に数多く残されています。
この当時飲まれていたお茶は、まず摘んだ茶葉を甑で蒸します。これを臼で搗き、型にいれて固めて乾燥させます。更にこれを焙であぶって保存しておきます。そしてこれを飲むには、薬研か碾き臼で細かく砕き、粉末にし、風炉にかけた釜で湯を沸かし、少量の塩を入れ、茶の粉末を入れて煎じます。さらに好みによってショウガやアマヅラ、コウボクといった香辛料を加えて、杓で碗にうつして飲みました。
長岡京跡からの出土品の中に炉と釜がセットになった「緑釉陶火舎」と呼ばれているものがあります。これは茶を煎じるときに使われたものだろうと想像できますが、そうだとすれば、平安京よりも前の長岡京の時代に既に茶は飲まれていたことになります。
弘仁期に宮廷で流行した喫茶の風は、嵯峨天皇が亡くなった頃から、宮廷で行われる仏教行事に使われたり、寺院で僧侶たちに飲まれる程度となり、貴族たちからは徐々に忘れられていくことになりました。
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