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喫茶の歴史17

 

 古田織部が江戸幕府二代目の将軍秀忠に茶の湯を指南したのに対して、三代目の家光の師範を勤めたのは小堀遠州政一です。彼の父親は、元近江の浅井氏の家臣でしたが、浅井氏が滅んだ後は、豊臣秀吉の実弟秀長の下で普請奉行として仕えていました。彼は、少年期に父親から英才教育を受ける一方、秀長の小姓を勤めていました。この間に秀長の供として茶席に近づくチャンスがあって利休や織部に出会っています。

彼の青年期は、豊臣政権が滅亡して江戸幕府が確立していく頃にあたります。二十六歳のとき,父の跡を継いで備中松山で一万二千石の大名に就任しました。二十九歳のとき、家康の隠居城である駿府城の普請奉行となり、修築の功によって遠江の守に任ぜられ、これ以降「遠州」と呼ばれるようになりました。

遠州が普請奉行として活躍し始めた頃から、茶の湯については織部に師事し、貪欲なほど教えを乞い、遂には奥義を授かっています。また、和歌はこの時代の第一人者であった冷泉為満について学び、古今和歌集を中心とした平安王朝のみやびな美しさを体得しています。

 遠州は、大名でありながら、生涯を通して茶匠としてばかりでなく、建築家として、あるいは造園家として、和歌や古典にも通じ、書を嗜み、やきもの作りの指導や、道具の鑑定など多方面に才能を発揮して活躍したマルチ芸術家です。専門は、幕府の普請奉行ですから、今風に言えば建設大臣といったところです。彼が手がけた建築は、城郭、寺院、武家や公家の宮殿など多岐に渡りますが、茶室の建築にも独自の工夫を取り入れて、茶の湯の世界に新しい風を吹き込みました。利休や織部を経て、進歩してきた数奇屋に書院つくりの座敷を加味して草庵風でありながらゆったりとくつろげる雰囲気つくりをしたり、窓をたくさん設けるなどして室内の明るさにも工夫をしています。彼が手がけた庭園には南禅寺金地院や備前頼久寺などに代表的な作品が残っています。

 やきものに関しては、彼の好んだとされる各地の窯を遠州七窯と呼んでいます。これは志(し)戸(と)呂(ろ)(静岡)、膳所(ぜぜ)(滋賀)、上野(あがの)(福岡)、高取(福岡)、朝日(京都)、古曾部(こそべ)(大阪)、赤膚(あかはだ)(奈良)ですが、中には遠州が亡くなった後になってから茶陶を作り始めた窯もあり、これらすべてに関与していたのではありません。

遠州は、利休以降に新しく作られたり見つけられたりした瀬戸や高取の名品などに古今集など古歌の中から選び出した美しい言葉を銘として付け、愛用しました。後に、利休以前、特に東山時代に選定された名品を大名物と呼び、利休時代のものを名物、そして遠州の選んだ名品を中興名物と呼ぶことになりました。

利休は、求道的に色彩も光も可能な限りそぎ落とし、茶の湯の精神を一転に絞り込む工夫をしたのに対して、織部は、一見ふざけているかと思われるほどの明朗さと賑やかさを持ち込みました。そして遠州は、これに整然とした品格を加味したといえそうです。これは王朝的な教養に裏打ちされた優雅な美しさを表現したもので、後に『きれいさび』と呼ばれました。

 

喫茶の歴史
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