陶芸家 江口滉
喫茶の歴史19
以前に千宗旦について紹介しました。
利休が秀吉の勘気に触れて切腹して果てたのは、宗旦が十四歳の少年で、大徳寺に預けられて禅宗の僧としての修行に励んでいるときのことでした。この当時、一家の主人が罪人として処刑されると、家族は連座して罰せられることになっていました。千家は取り潰され、家財は没収され、一家は離散する憂き目に遭いましたが、徳川家康や前田利家のとりなしで、約三年後になって家族の罪は許され、、千家の再興が認められ、一時没収されていた屋敷地や茶道具が戻されました。このとき、少庵(利休の次男で宗旦の父)は屋敷地を上京小川の本法寺前に移したと伝えられています。
その後少庵は徳川家から招かれましたが、これを辞退して家督を宗旦に譲り、西芳寺に隠退しました。宗旦の壮年期は、江戸幕府がその基盤を確立し、後期封建制度が完成していく過渡期です。
利休は町人の出身ながら秀吉からは三千石の知行を得て、天下一の茶頭として君臨していたのですが、封建制度の下では町人がこのような厚遇を受けることはありません。将軍家の茶頭は遠州や石州など大名級の武士が担当し、民間の茶匠は地方の大名に仕官したとしても数十石ほどの待遇になったのです。
宗旦は、祖父利休の失敗を省みて、生涯権力に近づくことを避け、茶の湯本来の姿を実現させるため、市井の茶を楽しむ一介の自由人として、わび茶の境地に徹した悠々自適の生活を送りました。このため世間からは「乞食宗旦」と呼ばれることがありました。
宗旦には四人の男の子がありました。長男は父親と意見が合わず、親元を離れました。宗旦は三人の男の子にそれぞれ屋敷地と茶室を与え、茶家として独立させました。これが今日まで続いた三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の基となりました。
宗旦は又、利休の茶風を保つために茶碗や指物、塗り物、一閑張りなどの優れた技術者を重用し、これらの技術を世襲的に受け継ぐ千家十職の基礎をつくりました。千家十職は代々千家に出入りし、必要な茶道具類を作る技術者の家業で、時代によって多少の増減はありましたが、現在は十職にまとまっています。
江戸時代は平和な時代でした。公卿、武家、町人を問わず、さまざまな芸能が興り、遊芸として愛好する人たちが増えました。茶の湯も遊芸の一つとして楽しまれるばかりでなく、交際上必要な教養のひとつとなり、茶の湯人口はどんどん増えました。
日本では、古来特別な技術の伝承は、たった一人の優れた後継者だけに、密かに伝えることで権威や地位を保ってきました。ところが、茶の湯のように非常に多くの人たちが関わってくるようになると、秘伝や口伝はなくなり、習得の段階に応じて、その都度免状を与えるという家元制度が発生してきました。家元制度が定着してくると、各家元はそれぞれの特色が求められます。ここに形式化が生まれます。そして家元の信用と権威を高めるためには格式かが強化され、茶の湯は茶道に変化したのです。
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