陶芸家 江口滉
喫茶の歴史13
応仁の乱(一四六七)以来、およそ百年間続いた戦国乱世は、一五六八(永禄十一)年織田信長が十五代将軍足利義昭を奉じて上洛したことで、ほぼ終止符が打たれたことになりました。このとき、信長は堺の町に対して二万貫の軍資金を要求しました。堺の町衆は、この要求をいったんは撥ね返しましたが、翌年再度の要求に対してはやむなくこれに応じ、信長の支配下に組み入れられることになり、この後、信長と堺の茶人たちの交流が始まりました。
信長は,名物茶道具に異常なまでの執着心を持っていて,名物狩りと称して召し上げたり,買い取ったりした。また、今井宗久、千宗易(利休)ら堺の茶人たちに知行を与えて召抱え、茶会を政権確立の有効な手段の一つとして活用しましたが、家臣たちには許可なく茶会を主催することを禁じていました。それは、茶会を重要な情報収集の場と考えていたからです。軍功に替えて茶道具を与えたのは茶会の主催を許可したという意味で,情報収集が領地を獲得するのに匹敵するほどの価値のあることと位置付けていたのです。
本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉が後継者として国内統一を完成しましたが、豊臣政権下でも、茶人たちはそれぞれが活躍し、ここに桃山文化が展開したのです。
茶の湯はもともと禅院で一定の規律に則って喫するものでしたが、武士や商人の中に浸透するに従って,権力者や富豪たちの趣味や道楽の一部になりました。
信長も秀吉も茶の湯を彼等の政治手段として利用しました。敵と講和した時や都の堂上人と接触しなければならない時には格好の舞台設定として使えました。
秀吉は、政権の座にいた間に、大阪城、伏見城、聚楽第、名護屋、禁裏、醍醐寺等で組み立て式の黄金の茶室を持ち込んで何度も大規模で派手な茶会を開催しました。秀吉にとって茶の湯は,野暮であろうと何であろうと豪華絢爛で楽しく遊べて、人々があっと驚いて、信服につながるパホーマンスであれば良かったのです。さらに、庶民層への慰撫にも使いました。一五八五(天正十三)年に大徳寺総見院で行った大茶会や、一五八七(天正十五)年の北野の大茶会は、近郷の庶民たちにも参加を呼びかけて、豊臣政権が揺るぎ無いものであることをアピールするイベントのひとつだったのです。
千宗易(利休)は、堺の商家に生まれました。若くして茶の湯を嗜み、信長に仕え、信長の死後は秀吉の茶頭として活躍しました。利休と言う名前は,一五八五(天正十三)年秀吉が天皇に茶を献じた時、町人の身分では天皇に接見することが許されなかったために法体となったと言う意味で臨時的に付けられたものです。利休は、六〇歳頃から秀吉の茶頭として仕えるようになりましたが、終始、質素倹約を旨とした侘びを強調しました。これを、陶磁史研究家の矢部良明さんは「四民平等の精神のあらわれ」と説明しています。以前に紹介した、神津朝夫さんは「利休が茶の湯を始めた若かった頃は、堺の商人としては貧しい生活をしていて、唐物をひけらかす豪商茶人たちの振る舞いを横目で見ながら、茶の湯についての思索を深め、茶の湯の核心を道具以外に求める、わび茶についての信念を持つようになったに違いない。商いに成功して、唐物を持てるようになった後までも彼はその信念を貫いたのだろう」と説明しておられます。
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